ごまの「アニメ批評日記」「最終兵器彼女」fromアニメ討論室

ごまの「アニメ批評日記」

「最終兵器彼女」 各話メインスタッフ

更新:2002-10-17

10.15 第13話「そして、僕たちは恋していく」(最終回)

地球に訪れる最後のとき、という話。
地球規模の大地震による人類滅亡の危機が先にあって、
一番最後まで死期が先延ばしされる場所として札幌(あるいは日本)に殺到している、
という「戦争」の真相らしきものがようやく明らかにされますが、
結局、本編が戦争のイメージの都合良く利用していた底の浅い作りだったということに変わりありませんし、
今更どうでもいいという感じです。
滅亡後のシュウジの一人舞台が、白一色の画面が手抜きのような気がしたものの、
なかなかシュールな絵で面白かったです。
しかしラストが回想を使った普通の映像に戻ったのは、作り手の腰が引けていた印象。

10.05 第12話「ラブ・ソング」

かけおちしたシュウジとちせに別れの時が近づく、という話。
人間ちせの記憶が消失し、シュウジがちせを軍に引き渡した後、
思い出の場所で、兵器のちせと語り合う後半が一応の見どころ。
兵器ちせと認識しつつも涙ながらにセックスを「しようとする」シュウジと、
兵器ちせにそれを「生殖行為」「快楽」と表現させる作り手の意図は、
シュウジにそれを否定させて、愛という崇高なものと言いたいがためということなのでしょう。
しかし、そんなことよりも、機械じかけの身体の兵器ちせにセックスを挑むシュウジの姿や、
そのなかで機械じかけのちせの腕がもげてしまう、
という描写によって繰り広げられる「狂気の沙汰」という点が面白かったです。
シリーズ最初では兵器然としていたちせが、
ここに至って極めて普通の身体なのはご都合主義というほかありませんが、
この「狂気の沙汰」のインパクトに比べたらとるに足らないことでしょう。

09.28 第11話「2人だけの刻(とき)」

シュウジとちせが駆け落ちする、という話。
いやはや、なんと言っていいやら・・コメントに困ります。
散々、男の妄想を散りばめておいて今回は「新婚ごっこ」による純愛路線ときました。
ちせの少ない残りの時間を普通の恋人同士っぽくけなげに生きようとする。
そんな姿を描いているつもりなのでしょうが、単なるおのろけを見せられているようでつまらないです。
それというのもリアリティのない恋愛描写をこれまで積み上げたことが悪因でしょう。
それにしても、「萌えアニメ」やら「エロいアニメ」が垂れ流されているアニメ界(本作含む)の中で、
どうしてこういう陳腐な純愛描写に受け手はコロリとだまされるのでしょう。
趣味嗜好と別に、自分自身は純愛にはまりたいという男の願望?

09.23 第10話「・・・そして」

シュウジの住む街に戦火が及び、学校も軍に接収されて、という話。
本作に漂う本質を「前時代的な男女観」という言葉で「ごまの独断ランキング」に記してありますが、
今回の話は前時代的というよりも、単なる男の妄想という雰囲気が全体を支配していました。
具体的には、冒頭における瀕死のテツを介抱するちせが「わたしの胸を触れ」
とエッチを迫って元気づけようとするシーンと、
後半における、冬美がテツの死を知ったその日にシュウジにエッチを迫る、というシーンがそれ。

まず前半では、いま正に瀕死の状態の人間にエッチを迫るというのがありえない行動で、
それに対して起きあがって抱きつくというテツも変。
そもそも、このシーンでは多数の敵兵の襲撃を受けた後のことであり、
即死しているのが当然(敵兵はその確認もするだろう)と考えれば、
テツが起きあがれるのも変だし、それ以前に生きてるのも変です。
シリアスなこのシーンでリアリティに欠けた要素が存在するのは演出として致命的だと思います。

後半のシーンでは、夫を失った冬美がその日の内にシュウジにエッチを迫るという行動が、
まるで「未亡人モノのAV又はエロ漫画」のようで作り手が妄想に走りすぎてます。
夫を失った冬美の姿は、茫然自失としているか悲しみにくれているかのどちらかでしょう。

あと、カワハラがシュウジにちせ用の薬を渡して「仕方なかったんです」と謝るシーンは、
それより前にあるイトウ曹長が錯乱しているシーンと、その時の「ちせを見た者は皆死ぬ」の台詞の挿入から、
ちせが軍の兵器として見放されたのでは、と推測されるのですが、
それが理解できたのは次回予告の段になってであり、
カワハラが謝るシーンで理解できなかったのは演出の分かりにくさだと思います。

前半のちせのモノローグに「気が済んだかい。戦争ごっこ」という言葉がありますが、
これはそのまま作り手に突き返したいです。

今回良かったところは、ブランコの裏に書いてあった相合い傘を写すシーンが、
「ちせは乗ってはだめ」とアケミが言っていた台詞の種明かしになっていたこと。
ただ話を跨ぎすぎで分かりにくいのがマイナスですが。

あと「さよならパーティ」をするために軍の接収を待ってもらう交渉のシーンで、
シュウジが軍への非難を心に思いながら、土下座してお願いするところ。
大人の対応をするシュウジの性格が出ていました。
ただ「格好悪い」という台詞が入るのは却って分かりにくくしていたと思います。

09.05 第9話「アケミ」

北海道を襲った大地震によってアケミが瀕死の重傷を負う、という話。
今までいえなかった自分の思いをシュウジに伝える瀕死状態のアケミを
半パートかけて延々描いているのが一応の見どころらしいのですが、
地震が頻発してることを数話前に描いているとはいえ、地震による突然の死という展開には、
アケミに感情移入するより、ご都合主義な作り手の意志の方がどうしても先に感じてしまいます。
「札幌空襲」で死んでしまったタケの方が、まだよっぽどリアリティがありました。
あと今回改めて思ったのですが、愛する人のために戦場に行くという価値観が全く理解できないので、
アツシやのアツシ絡みの台詞に感じるものが何もないです。
おそらく「愛する人の為なのに、戦いにいくことは愛する人の側にはいない」
というようなことの矛盾やジレンマみたいなものを描いているつもりなのでしょうが、
たとえフィクションでも、本作のような説明不足(というより放棄)したような戦争描写では、
戦いにいってるアツシがただの馬鹿にしか見えないのです。
アツシの戦友が戦死してしまうところや、シュウジがアケミの裸を見ようとするところのテンポの悪さは、
タチの悪いギャグをやっているのかと思ってしまいました。
アツシの戦友が戦死するシーンと、その後の戦闘シーンの妙に等身の低い作画もそれに輪をかけてます。
アツシの戦友が戦死する直前、カメラが引く形の構図にしたのは直後の展開がミエミエで失敗。

08.31 第8話「みんな変わっていく」

膠着状態のなかでの、シュウジ、ちせ、街の人々の姿、という話。
元々どういう戦争かをひた隠しにすることで、戦争という極限状態やそれへの恐怖感をあおっているので、
今回のように戦況が語られれば語られるほど、
逆に戦争におけるリアリティの無さ(ここでは敢えて書きません)が露呈してしまってます。
それはともかくとしても「嫌でも受け入れざるをえない戦争という状況」。
理不尽かつ残酷なその状況を使ってまで作るべき恋愛物語なのか、これは?
との疑問が回を重ねる度に強くなってきます。
恋愛描写の方にリアリティがあればまだ救いもあるのですが・・。

08.24 第7話「守りたいもの」

ちせの言動に改めて兵器としてのちせへの驚き・恐怖を感じたシュウジと、その感情を察したちせ、という話。
兵器としての役割に嫌でも慣れるあまり、シュウジとの会話に恐ろしい言葉をサラリと吐いてしまうちせ。
それに恐怖を覚え「ちせから目をそらしては駄目だ」と自らを叱咤しつつも、
それができないシュウジと、それに傷ついてしまうちせというのは、
相手の嫌な部分から目をそらすかどうか、という普通の恋愛にも転用できそうな構図で面白いです。
傷ついたちせが戦闘に打ち込むことで心の痛みを忘れようとするところは、この設定を生かした描写。
部下の下士官とのやりとりの際、シャワーを浴びていたのは意味不明でしたが。

08.21 第6話「クラスメイト」

ふゆみ先輩に「浮気」してしまうシュウジに対し、「クラスメイトに戻ろう」とちせが言う、という話。
恋人になったり、別れたり、よりを戻して、また別れて、また戻って・・とこの二人、行動が両極端すぎます。
二人の心の揺れ動きを描写しているつもりなのでしょうが、こういうのは本来「恋人」の枠内でやるべきもので、
その努力を放棄しているようにしか見えません。
「女の子だって恋人とエッチしたいと考えてる」とちせに言わせるシーンがありますが、
言葉自体の是非よりも、こういう極限状態でしか女の子はそれを口に出せない、
というような作り手の価値観みたいなものが見え隠れしていて、押しつけがましくうんざりします。

08.02 第5話「うそつき」

学校にいるとき大地震が発生し、それを敵と誤認してしまうちせの兵器の部分をシュウジが見る、という話。
「好きな人がいる」を連呼する冒頭のちせのシーンはいつも通りの説得力不足ですが、
今回は他のところで見どころが多かったです。
地震の発生の誤認による「兵器ちせ」の発動を目の当たりにしてしまうシュウジ。
シュウジに語りかける人格の違い、即ち兵器を感じとったシュウジの恐怖感。
教室を飛びだしたちせをシュウジが追うとき突き飛ばされたショックと、
安否への不安とがないまぜになった明美の平手打ち。
反射的に平手打ちを返すシュウジ。そこにある二人の思いの違い。
シュウジと話をするために出動をすっぽかすちせ。
ちせが打った手を遂行しなかったらしい軍にも原因があるとはいえ、
結果としてちせの行動が「味方」に多数の戦死者を出すという残酷な現実。などなど。
待ち合わせ場所に現れないシュウジの居場所を知らせようとする衛星からの映像通信を
ちせが拒否するところも設定を生かした面白さといえます。
ふゆみ先輩のところにシュウジが寄っていて(かなり)遅くなったようなのですが、
この時のシュウジの心の動きは省略すべきではないと思います。

08.02 第4話「ふゆみ先輩」

ちせが呼び出しのポケベルを放棄しての初デート。その時シュウジに別の思い、という話。
やっとの初デートが無事に終わろうとしていたところを軍に邪魔され、
自らの無力さを改めて感じたシュウジが、心の中で否定しつつもふゆみ先輩に逃げようとします。
目論み通り(?)ふゆみ先輩が迫ってきたところで、ちせへの「好き」という気持ちが蘇って涙する、
という展開なのですが、主客転倒している印象です。
ふゆみ先輩の身体を拒否することで、ちせへの思いを間接的に表そうという意図なのでしょうが、
本編とそれに至る話では、ちせのことがすごく好き、或いはすごく好きになったという説明に乏しく、
一度関係をもってもいる、ふゆみ先輩を拒否する行動自体の説得力に欠けています。

幼なじみのあけみがシュウジに「ちせの写真」を手渡すシーンで、
シュウジへの思いからか、敢えて自分も一緒に写っているものを渡すという、
実はおためごかしな行動は面白かったです。
ただ「敢えて」という部分はもう少し強調しても良かったかと思います。

07.20 第3話「ふたりで」

失敗するシュウジとちせ二人っきりの逃亡。その後、シュウジがふゆみ先輩と再会して、という話。
二人っきりで逃亡を図るも、ちせは出撃を選択。
待ちぼうけを食うシュウジというシーンは、見どころのはずなのですが、
回想シーンなどを入れて、シュウジの側の待ちぼうけの描写をもっと膨らませて見どころらしくして欲しかったです。
もっとも、それ以前の段階、シュウジが二人っきりの逃亡を決意するところは、
シュウジがちせを好きだという、あるいは好きになる過程という描写の乏しさを下敷きにしているので、
その行動に今ひとつ共感を覚えることができません。
二人の時々の感情、またその変化がしっかり描かれているようで、
実はところどころ欠落している、というのが本作の特徴のように思います。
あと、ふゆみ先輩とのひとときに「ちせのことを忘れていた」とシュウジが驚くのは変。
例えば浮気中に配偶者の事を思うはずもないことが簡単に想像できることを考えれば、
それはむしろ当然のこと。
その当然のことに何故シュウジが驚くのかを描かないと、全くもって不可解な描写に終わってしまいます。

07.14 第2話「私、成長してる・・」

ちせが最終兵器であることを偶然知ってしまったシュウジとちせのその後、という話。
人間が兵器になるという設定そのものは荒唐無稽でも、
その本質は、艱難辛苦あるいは極限状態のなかで恋人同士の心の揺れ動きを描くというもの。
そのために、全くの他人同士の男女から始めて、
この設定での展開で恋人に移り変わっていくという、
相対的には安直な作り方といえる描き方ではなく、
心の結びつきの微妙な恋人同士で描くことを選択したのは、試みとして評価できます。
しかし今回はそれを盛り上げる工夫が今ひとつ。
恋人という関係からくる先の展開の読まれ易さに対するフォローがなく、
微妙な関係ゆえのメリハリのなさ、盛り上がりのなさが際立ってしまってます。
ところどころ入るナレーション風のシュウジの台詞も、
全体の流れを分断する印象を与えてしまい「盛り下がり」に拍車をかけています。
細かいところでは、ちせが自分を「最終兵器」と連呼するのが不自然。
最初に最終兵器というところではシュウジが「それは何?」とつっこむ描写が欲しいですし、
そのあとの連呼は最終兵器ではなく兵器だけで十分です。
あと、本作のBGMはちょっといただけません。
曲調や曲の雰囲気がハッキリし過ぎていて、
「こういうシーンです」という作り手の意図があからさまで、お仕着せの感が強く、
聴いていて不快に思います。

更新:上記記載 作成:2002-07-23 文責:ごま
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