映画『千年女優』アニメコラム

アニメコラム集

映画『千年女優』

鑑賞日2002年 9月15日

あらすじ

かつて一世を風靡するも30年前突如として映画界から姿を消した大女優・藤原千代子。
彼女はとある山荘で一人、ひっそりと暮らしていた。
そこへ訪れた映像制作会社社長・立花とカメラマンの井田。
老舗の映画会社「銀映」の撮影所が閉鎖されたことを機に、
同社の看板女優であった彼女のドキュメンタリーを制作しようという目論見であった。
普段は取材を受けないという千代子が今回のそれに同意したのは、
彼女がかつて無くした「一本の鍵」を発見した立花がそれを持ってくると聞いたからであった。
約束通り「鍵」を差し出す立花。
千代子は自らの半生、「鍵」にまつわる過去を順を追って語りだした・・

レビュー

かつて一世を風靡するも30年前突如として映画界から姿を消した大女優・藤原千代子。
彼女はとある山荘で一人、ひっそりと暮らしていた。
そこへ訪れた映像制作会社社長・立花とカメラマンの井田。
老舗の映画会社「銀映」の撮影所が閉鎖されたことを機に、
同社の看板女優であった彼女のドキュメンタリーを制作しようという目論見であった。
普段は取材を受けないという千代子が今回のそれに同意したのは、
彼女がかつて無くした「一本の鍵」を発見した立花がそれを持ってくると聞いたからであった。
約束通り「鍵」を差し出す立花。
千代子は自らの半生、「鍵」にまつわる過去を順を追って語りだした・・

本作の基本的な作品構造は実に単純です。
千代子が出演してきた映画の内容とその思い出を絡めつつ、「鍵」のもつ意味を明かしていく。
同時に千代子の記憶の回想というフィルターによる映像化によって、千代子の半生を描いていく。
そこには、例えばスタジオジブリの最新2作にある冒険活劇のような、
先の読めない展開による面白さというものはありません。

では本作の見どころはというと、一言で表すと「アニメ映像による新たな表現」となるでしょうか。
ストーリーを楽しませるためのアニメーションではなくて、
目的の「アニメーション表現」を効果的に見せるために考え出されたストーリー。
即ち、映像こそが本作最大の見どころであるということです。

その一つにはまず「回想シーンにおける記憶語りの表現」がありました。
回想シーンというのはアニメに限らず物語においてはよく使われる演出です。
映像においては、示されるその回想は「事実の再現」であり、
それを回想、即ち過去であると強弁しているにすぎません。
しかし、いうまでもなく人間の記憶は曖昧なものであり、
記憶語りの際に、本人の都合のいいように事実がねじ曲げられたり、
欠落する記憶がねつ造されたりということは往々にして起こりうることです。
千代子の出演作を断片的につなぎ合わせていることや、
断片である作品の1シーンは千代子自身が印象に残っている
(どの作品においても同じような。本当にあったのかどうかの疑わしさもある)
シーンとすることで記憶語りにおける曖昧さを表現しています。
また回想のなかの作品を次々に転換させることで、
「あの作品では・・この作品では・・」というような、
記憶語りにおけるとりとめのなさの表現にもなっています。

そして「カット切り替えによる映像の面白さの表現」がありました。
例えば「扉を開くとそれまでと全く違う別の世界が広がる」というカット切り替えを使った演出。
これも既存の作品群によく見られるものです。
既存の作品においては、場面展開の際の単なる一演出に過ぎないのですが、
本作ではこの演出による面白さを極限まで追求しています。
そのための要素として、
まず現実の世界に「千代子、鍵の君、同級生、鍵の君を追う傷の男」などを配置。
そして千代子の出演作にもこれらと同じ配役をほどこして、
全ての出演作に同じようなシーンを用意しています。
最初は、過去への導入という既存の作品同様の使い方で始まった演出は、
「記憶の中の過去」である千代子の出演作を渡り歩くうちに、
現実から虚構、虚構から現実、そして虚構と現実が混然となる、
という不思議な展開への道具として使われていきます。
千代子最後の出演作まで至った本作のクライマックスともいえるシーンでは、
アッと驚く映像が用意されており、これまでの展開が集約したその1シーンの映像に
「手品の種明かし」を見たような驚き、感嘆を得ることができます。

これらの見どころの他にも、
それぞれのシーンが異なる衣装、異なる背景による世界観になっていることで、
めくるめく歴史絵巻といった楽しさもあります。
これにはそれぞれの世界観を忠実(場合によってはステロタイプな共通認識)
に美しく再現した秀逸な作画が功を奏していました。
日本の歴史、映画史をたどるという楽しみ方もできるようになっています。

アニメにおける新機軸を打ち出したといえるアイデアをもった本作ですが、
それゆえに悪い面もいくつかありました。
一番気になったのは、
映像のクオリティの高さの割に台詞についての配慮が希薄、と感じられたことです。
本作では千代子による記憶語りを、
説明的なシーンや台詞を極力排除し、その映像のみによって理解させることで、
その曖昧さや虚構性を表現することに挑んでいたのですが、
それを完璧に再現していたかというと否定せざるをえません。
特に最初の方の数作において、映画の中のシーンに立花と井田が立つ描写には違和感がありました。
ここでは立花と井田の会話によって、何の映画であるかの説明となっているのですが、
立花には井田に対してではなく千代子に対して話しかけさせれば、
スクリーンには描かれていない現実世界の立花と千代子の会話、
即ち千代子の記憶語りという構図がいち早く理解できたと思います。

また「紅の華」の記憶語りにおいて、
馬に乗る演技を再現する立花と千代子の現実における滑稽な姿、
という本作唯一の俯瞰(唯一なのは本作においての本意でない表現ということだろう)がありましたが、
このシーンももっと早い段階で使って構図を理解させた方が良かったと思います。

そして、それぞれのシーンに入る井田の冷徹なツッコミ。これが全くの逆効果。
そのツッコミは映画の中のシーンであること、それが別の作品に変わったことなどを示していますが、
一目でそれとわかることに対して冷徹なツッコミを入れさせては、こちらの方が興ざめしてしまいます。
それらのツッコミは受け手の心に任せておいて、
井田のキャラクターを千代子びいきの立花に振り回される愛すべき腰巾着にするべきでした。

それからキャスティングにも苦言を呈したいです。
「アニメ声」な声優、声の個性が突出しすぎている声優を配していたのが頂けませんでした。
映画史をたどるという内容からも、役者色の強い声優で揃えて欲しかったです。
具体的には、20〜40代の千代子、大滝監督、井田カメラマン、鍵の君あたりが、
演技力は良くてもミスキャストだったと思います。

あと蛇足ですが、エンディングで流れた主題歌は
作品の内容と合致しているとは思えず、BGM担当者による単なるテクノとしか思えませんでした。
作中のBGMの方は耳障りな押しの強さもなくて良かったのですが。

(まとめ) 少女時代にたった一晩会っただけの「鍵の君」を追っているうちに、
映画界の大女優として半生を過ごし、いま一生を終えつつある主人公の女性。
狂気にも似た一途な思いを貫いた女性の一生、というのがストーリーとして用意された一応の見どころ。
もちろん素直に共感しつつストーリーを追っていくというのも一つの見方ではありますが、
現実世界と映画の中の同じようなキャラクター、同じようなシーンの連続に、
早晩そのストーリーは「映像表現のための方便」であることに気づくはずです。
そのアニメにおける新しく、アニメならではの表現が一番の見どころだと思います。

更新:2002-09-18 作成:2002-09-16 文責:ごま
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