樋口湖太郎は、父子家庭で暮らす小学6年生。
ある日の朝、いつものように登校しようとすると、
玄関先で突如見知らぬ美少女、美紗が抱きついてきた。
思わず逃げるように登校する湖太郎だが、
マンションの隣に越してきたという彼女は、
「自分は天使だから湖太郎を幸せにする」といってつきまとう。
かくしてクールな小学生、湖太郎の日常はドタバタコメディと化していくのだった。
たとえていうと、初めて訪れた家の応接室にひとり通されたような気分。
そんな、作中に入っていけない印象を本作には受けます。
本作を構成する要素のそれぞれは、どれもそれほど奇抜というものではありません。
まず「超能力をもった隣人」というのは、遡れば「オバQ」まで行き着きますし、
「その超能力やそれを使いこなす技量、センスが変」というのも同様です。
また「本人の意向お構いなしに至れりつくせり」というのは、
今や「美少女アニメ」のスタンダードといってもよいでしょう。
これらに加え、こちらも探せば無くはないだろう
「父子家庭という境遇。クールな性格をもった主人公」という要素を組み合わせ、
シリアス要素というシリーズ全体の骨に、肉付けされるドタバタコメディ。
これが本作の全体像と思われます。
そうと分かっていても作中に入っていけないのは、
湖太郎の心理描写が決定的に不足しているからではないでしょうか。
上に書いた2つの要素の前例に当てはめると、
1つ目の「超能力をもった隣人」では、その異常な状態を主人公が全肯定することにより、
2つ目の「本人の意向お構いなしに至れりつくせり」では、
本人が嫌々ながらまんざらではないとか、
或いはやはりその存在を肯定し「正常な周囲」の干渉から守ろうすることにより
(例えば『ああ女神さまっ』)、
いずれにしても主人公のスタンスを明確にした上で作中に入ってこさせようとします。
ところが本作では湖太郎が、クールな性格と境遇による寂しさをもつという設定からか、
そのスタンスが、美紗の存在を肯定なのか否定なのかハッキリしないのに加え、
心理描写に乏しいがゆえ、主人公に感情移入できないのです。
更には美紗の天使としての存在、その行動理由も「ストーリー上の謎」としているために、
作品全体が輪をかけて訳がわからなくなっています。
作中第6・7話で美紗に思いを寄せる御手洗が登場しましたが、
通常こういう設定のときに感じる「美紗が奪われる」
というハラハラドキドキもありません。
クールで無口といっても内面に感じる感情が無ということではありません。
本作には、湖太郎がその時その時の状況で何を感じるのか、
特に美紗の一挙手一投足でのそれをもっと読者に伝える工夫が必要だと思います。