『ギャラクシーエンジェル(第3期)』第15・16話アニメコラム-アニメ討論室 ナビゲーション部分を読み飛ばす

アニメコラム集『ギャラクシーエンジェル(第3期)』第15・16話 各話の主なスタッフデータ

第16話「ヒゲつきカルビ丼こい口ソース」

放映日2002年 11月 24日:コラム作成日2002年 11月 25日

あらすじ

ロストテクノロジーのつづらを運んでいたフォルテとウォルコットだが、
ウォルコットが転んだ拍子に二人とも階段を転げ落ち、つづらの蓋が開いてしまった。
ウォルコットが腰を痛めただけかと思いきや、
翌朝になってみるとフォルテとウォルコットの性別が入れ替わっていた。
更に悪いことに男性化したフォルテを蘭花が好きになってしまい・・

レビュー

第2期第11話で好評を博した、キャラの入れ替わりをベースにした話の、
第3期第3話に続く第3弾でしたが、
回を重ねる毎に面白さがスケールダウンしてしまっている、というのが正直な印象。

今回、身体は完全に性転換、心は元の性別を意識しつつも半分は性転換、
と設定的には前2作に比して演技面でのややこしさに拍車がかかる上、
「女の中の男」とまで言われたフォルテが本当に男になってしまう、
というシリーズ中における「ネタ」のひとつが具現化。
翌朝を迎えたところでは期待感大だったのですが、
その後の進行はそれを萎ませる一方でした。

フォルテ&蘭花という、隊のなかでも息のあった名コンビが行動を共にする必然。
そこで惚れっぽい蘭花が男性化したフォルテに惚れる、
という骨組みそのものは決して悪くないと思うのですが、
男性化→任務→恋愛感情という展開があまりにも早すぎで、
展開の説得力はあっても唐突さや強引さ、わざとらしさ、
という印象の方を強く感じさせるものとなってしまいました。

お風呂やトイレといった生々しい現実は想像すらさせたくない、
というのが作り手の意向のようなので難しいところだとは思いますが、
フォルテが男性化したところで、それによるコメディ描写を間にはさんでから、
本編の進行に進めば印象は変わったと思います。

冒頭のシーンでフォルテとウォルコットが階段を転げ落ちるのは、
映画「転校生」のパロディだったのですが、
その後の展開においてウォルコットが本編から外れるのであれば、
作り手の自己満足でしかない無意味なパロディでした。
「うっかりつづらを開けたら性転換」の方がスッキリしたと思います。

フォルテの逃避行からは極端にテンポが悪かったです
間がもたないのだったら尚更、男性化したところのコメディ描写が欲しかったです。
全員が性転換する、というオチもミエミエかつ安直。
したがって性転換後をオチとして短時間で流してもインパクトには乏しく、
であるなら、ダラダラしていても声優の演技力に頼った作り方をした方が
その演技が楽しめる分、マシだったと思います。
もっともその場合は別のオチをもってこなければいけませんが。

備考: 第2期第11話。入れ替わりというネタに「強制成仏」という、
入れ替わりとは違うネタをオチとして伏線付きでもってきている。
第2期第4話。一人巨大化→全員巨大化。収拾はついてないが基地の巨大化というオチ。
第3期第14話&第16話。一人が災難→全員が災難。収拾がついてないだけ。

第15話「さよならぼくらの土瓶蒸し」

放映日2002年 11月 24日:コラム作成日2002年 11月 25日

あらすじ

ある惑星の、ある王国の街を歩いていたミルフィーユとヴァニラ。
そこで一枚のポスターを目にしたミルフィーユが大爆笑する。
それは醜い顔が描かれたポスターだったのだが、なんとその人物こそこの国の国王であり、
「国王を侮辱した」という罪で屈強な男達にミルフィーユは連行されてしまう。
どこまでも笑うのを止めないミルフィーユに、国王は極刑をいい渡して彼女を投獄する。

レビュー

本編中、随所で笑い転げるミルフィーユの姿が対照的に、
そして「にらめっこは得意なのに」という彼女の台詞が皮肉であるかのように、
笑うどころかニヤリとさえできずにいた自分がモニターの反対側にいました。

結論からいうと完全な失敗作。全シリーズを通しての最低の出来。論外の出来と言っていいでしょう。
これまでの3期全てを合わせた49話のそれぞれの話においても、出来不出来というものは存在しますが、
それは作品という形式にのせられた上でのものであり、
今回のはそこにすら至っていない、即ち作品ですらないといってもいいかもしれません。

問題点はハッキリしています。
ミルフィーユが終始とり続けた行動、
「生まれつきの醜い顔を笑う」。この一点につきます。

ここまで読まれて「道徳的見地から作り手を批判するのだな」と思う方は多いでしょう。
確かにそれも問題ではあります。
先天的な身体の特徴を笑って相手を傷つけるという行為は、
道徳的には非難されるべきものです。
ですが今回の話の大きな問題点はそこではありません。

「生まれつきの醜い顔を目の当たりにして」→「笑う」。
この因果関係が全く理解不能なのです。
優等生ぶる気はありません。これは道徳的とか、そういう問題ではないのです。
誤解のないよう敢えて言ってしまいますが、
私にも、他人を見たときに「美しい」或いは「醜い」と感じる本能的な感性はありますし、
そのような「美しい」「醜い」が多数の見方となったときに発生する優劣、
それによる理不尽さが現実として存在することが否定できないことを理解しています。
そうであってもなお、今回のこの「醜い」→「笑う」ということが理解できないのです。

本編では王の醜い顔をミルフィーユが「面白い顔」と言って笑い続けますが、
私の頭の中には、あの醜い顔を「面白い顔」と認識する感性を持ち合わせておりません。

道徳的に問題あり、というところまでは作り手も重々承知の上なのでしょう。
影絵親子の聞かせ語りを本編の前にもってきているのは、
虚実ないまぜな印象を与えることによる「異なる価値観をもつパラレルワールド」という主張。
オチにある「世の中顔が大事なの?」は、理不尽な現実を皮肉った台詞ととれます。
それに続く「美しさは衰える。一番大事なのは金」は、
時に理不尽さをもつ要素を並べることによる「醜さ」という理不尽へのフォロー。
笑ったことの代価が極刑というのは、
王の横暴さを対立させることによる道徳悪へのフォロー。
などなど、本編には道徳的問題点へのフォローめいた演出がそこかしこに見え隠れしています。

道徳以前の決定的な問題点である「醜い」→「笑う」という部分の説得力がない以上、
そのどれもこれもが「とってつけた感」という域をでないもので、
完成品としての本編において何の意味もなしていませんでした。

「笑う」という行動そのものに焦点を当てて「笑い」を指向した話が「笑えない話」だった、
という何とも皮肉な話でした。

更新:2002-11-26 作成:2002-11-26 作成:ごま
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